つらい思い出を乗り越えて
『CannabisNews』第6号(2001年10月25日発行)より


つらい思い出を乗り越えて
HIGHTIMER ( r i k i )

 カンナビスト会員のHIGHTIMER(riki)といいます。これから伝えたいことは、同じ様な経験をする人が、今後現れて欲しくないという思いを込めて、逮捕者の現実を少しでも認識してもらえればと思いながら書いています。

 俺が一生忘れられない言葉がある。「てめえの一生、グァシャグァシャにすることだってできんだぞ!」――俺の担当となる、県警本部暴力団対策室の刑事の一言だった。

 事件の経緯は弟が発端だった。弟に隠していた栽培室がある日見つかってしまった。それまでは、たまにリーフをやる程度だったが、バッズが欲しいと言われ、トップ部分が4本ほどしかない丹誠込めて作ったプラントの一本を分けてやることにした。いつも迷惑しかかけられない弟で、ただでくれてやる気にはなれなかったので、2万円でならいいと伝える。

 後日、弟が友人を連れて俺の店にやってきた。そいつが2万円出して一本持っていった。その後がいけなかった。金を取ったことに少し気がひけたのでカナバターをくれてやった。吸わない葉っぱをバターで煮込んだものだ。ところが、その友人は県警のマルボウから覚せい剤でマークされていて、ある日その友人の家宅捜査の時にそのバターが冷蔵庫から出てきた。

 親父から、弟が大麻で捕まったと聞かされた。一瞬血の気がひいたのを覚えてる。俺も間違いなく捕まると思った。しかし、栽培室には初めて成功したクローンの苗が9本、30cmにまでなっていた。いまさらじたばたしてもしょうがないかと思うとともに、なぜかクローンの苗を捨てることができなかった。俺はこまめに栽培日記を付けていて、その最後の方には、「いつまでこの日記をつけられるかわからない」と記してあった。その日記は押収され、俺が営利目的ではなく栽培家である証拠にもなった。

 取り調べに最長の20日間、その間は接見禁止のため外界との連絡は取れない。家族のことと店のことが心配で逮捕から2日間はパニックになっていた。刑事からは「新聞に出るぞ!」と言われ、両親、家族、特に小学校と幼稚園に通っている子供たちのことが気になってしょうがなかった。
 以前、弟が事件を起こし新聞に出たことがあるが、入る者よりも残された者の方がつらいことを知っている。小さな町では、麻薬常習者の子供として見られているに違いないと思うと、どうにもできない自分に苛立った。人生もうこれで終わったと思い、自分が壊れていくのを感じた。

 20日の間、妻には手紙を書き溜めたが、子供には書けなかった。子供のことを考えただけで涙が止まらなくなってしまう。取り調べも終わり、拘置所への移管までの間に一人になる時があった。二人一部屋だったので同房の者に泣く姿は見せられなかったが、その時はしゃくりあげる音を掻き消しながら、涙を止めずに手紙を書いた。「パパは親戚のお店に手伝いに来ています。夏休みには一緒に海に行こうね」と。
 その後、拘置所に4、5日いた後に仮釈放を認めてもらい、昨年の7月初旬に帰宅した。子供達は急にいなくなっていた俺の帰りを泣きながら喜んでくれた。この子達のためなら何でもできる。もう失うものは何もない。そう思うと、自分は子供達のために何ができるか、ということばかり考えた。

 保釈後、町を出歩く時は、必ず人通りの少ない裏道を通る。人目を避けて歩くのは挨拶の時の相手の目を見るのが嫌だったからだ。ただでさえ人に気を使われるのが苦手な俺が、俺の存在自体が人を困らせているのではないかと思うと滅入ってしまう。
 ある日、中学時代の友人に会った。友人はあわてて俺を飲みに誘ったが、その後は何の連絡もない。俺の店には、商工会青年部の連中が押し寄せてきた。当時俺はありがたいと思ったが、昔のようにはいかない。相手も同じようだ。その後、彼等も店には来ない。
 町内の人たちも大勢来てくれた。俺の気のせいか、逮捕後は昔と違って冷たさを感じてしまう。みんな俺を励まそうと来てくれたことはわかっている。友人もそうだった。けど、後に残る空しさと言うか、淋しさはなんなのだろう? ほとんど本音でしか話せない俺は、人の裏を見ているようでつらい。
 つらいのは妻も同じだった。俺よりもつらい思いをしてきた。残された者として人目にさらされ、「あなたもやってたんでしょう?」と言われ、子供の通う塾では無視されつづけ、幼稚園の次女は、通うように遊びに行っていた友達の家に行けなくなった。
 妻は俺のいない間店を一人で切り盛りし、ほとんど子供の顔を見ることもできず、子供はストレスがたまり、面倒を見てくれていた義理の母も疲れ果てていた。家族全員が疲れ果てていたために、保釈金を集めて俺を出した。
 帰った場所は地獄のような所とはわかっていたが、子供の顔を見られるだけで元気が出た。唯一救われたのは、友人からの結婚式の招待だった。友人の父は県議会議員である。俺が出てもいいのだろうか?と何度も考えたが、その頃、ふさぎ込んでいた俺には、表に出て行くいいきっかけだった。数少ない友人によって、自分が救われていることも実感した。

 唯一歯車がかみ合わないことが未だにある。それは妻との関係だ。俺は何を言われても、自分が悪いと言い聞かせた。しかしそれが半年も続いた頃、妻に自分の気持ちを打ち明けたが理解してもらえなかった。今、活動しているカンナビストのことは言ってない。 妻はもう理解者ではなくなってしまっていると確信しているからだ。それが今の俺には一番つらいことなんじゃないかと思う。付き合って15年。お互いのつらい時期を共にし乗り越えてきた関係を、どうすれば元に戻すことができるのか考え続けたが、未だに道は見えてこない。一緒にいることがつらいわけではないが、話す言葉も無くなりつつある。
 彼女は、大麻については知っていたし、理解もあった。その彼女が俺の全てを否定した。自分の中で一番大切なものをなくしてしまったと思ってる。だけどまだあきらめてはいない。いつか分かってもらえると思っている。だから一緒にいる。この問題だけは全く先が見えず、一番不安に思うことだ。

 今は、自分の店は閉めている。逮捕の後、店も暇になり、苦労をかけた両親を休ませようとも思ったので、親父の店を継いで夜は働いている。借金だってたんまりとあるため、朝は5時半に起きて新しい職場へ向かう。毎日3、4時間の睡眠ではあるが、苦労をしているとは少しも思っていないのが不思議だ。
 一日でも早く、家族で旅行に行きたい。子供が一番喜ぶのが旅行だからだ。それと、大麻自由化運動が俺の活力になっている。それも子供のためと言ってもいい。あんなつらい思いをさせてしまった償いでもある。今でこそ全てポジティヴに考えられるようになったが、帰ってきたばかりの頃は、母がよく「胸を張れ!コソコソしたお前は見たくない!」と言いながら涙を浮かべていた。その頃は家族の崩壊という言葉がいつも頭をかすめた。俺のせいで、俺のせいでと自分を追い込んでいた。

 もうすぐ仮釈放から1年経つ。最近は逮捕前後のことが、フラッシュバックされる。急にその時々の細かいことを思い出す。車でタバコを吸えば、好きな時にタバコが吸える喜びを覚え、ビールを飲んでいても自由を感じる。一方、日が経つに連れ町の人と会う機会が多くなり、その度に彼等の目の中でそんな俺への対応に困っているのを感じてしまう。そんな毎日を送っていると、子供も間違いなくそういった目で見られているのがわかる。それはいけない……。いけないと思った。

 年を越して21世紀になり、何かやろうと思ったのが、インターネットでの掲示板への書き込みだった。「日本での大麻解放運動について」と題したら、1ヶ月で1000件を越える反応があった。やれる。運動できるという実感があった。
 そこで知ったのが、カンナビストだった。漠然と運動をしようと考えていた時に、俺への起爆剤になったのは間違いない。カンナビストがくれた勇気は、今までに感じたこともない連帯感や、安心感を与えてくれた。俺は何を言われてもいいが、関係のない子供を巻き添えにすることはできない。守るんだ、しっかりと。この小さな町で、知った顔を見ながら、大麻自由化を叫ぶことで、俺の本当の意味での大麻自由化運動が始まると思っている。